コラム

ぼくが希望の光に
――田中健二朗の3年間

2021/08/09

 記録を見返すと、残酷な数字が残っている。

 2018年9月16日、横浜スタジアム。ベイスターズはタイガースに4-20のスコアで大敗した。

 3回途中から登板したのは、田中健二朗だ。しかし、すでに勢いづいていた相手打線を食い止められない。連続四球で満塁としたあと、投手の藤浪晋太郎にホームランを打たれた。さらに大山悠輔にも一発を浴びた。2つのアウトを取るのに33球を要した左腕は翌17日、一軍登録を抹消された。

 あれから3年の月日が経とうとしている。

 その間、田中は一軍公式戦のマウンドに一度も立っていない。

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「全力でボールを投げたい」

 左ヒジに明確な異変が生じたのは、2019年3月のことだ。試合で投げた翌日、強い張りが出た。数日経っても改善せず、そればかりか力が入らなくなっていく。4月、ドクターから「手術を頭に入れておいたほうがいい」と言われた。

 PRP(多血小板血漿)療法を試したものの、状況は好転しなかった。残る手段は、手術しかなかった。

 当時のヒジの状態について、田中は言う。

「靭帯が伸びちゃってて。いま思えば、2018年に投げていたときも、コントロールができていなかった。そのときからヒジが緩くなっていたのかもしれない」

 8月、内側側副靱帯再建術(トミー・ジョン手術)を受けた。このとき、田中はあと1カ月ほどで30歳になろうとしていた。「ここで1年投げられないとなると、戦力外もあり得る」と考えていた。

 それでも、野球選手としての純粋な欲求が不安にまさった。

「また、全力でボールを投げたいなって」

 手術を避けても、手術を受けても、直面するであろうリスクは同等に思えた。ならば、時間がかかろうとも治癒を目指すべき――。覚悟を決めて、ヒジにメスを入れた。

「10カ月で復帰してやる」

術前の意気込みは、術後の現実で一瞬にして吹き飛ばされた。「いや、無理だろ……」。見えないゴールに向かってのリハビリの日々が始まった。

 当初、苦しみを共有できる相談相手が周囲にいなかった。大貫晋一やチームスタッフの藤井秀悟は同じ手術の経験者だが、一軍にいることが多く、ファームの田中が話を聞く機会は限られていた。

 変わり映えしない毎日を、孤独に過ごした。その年のオフ、育成選手になった。

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「そんなもんだよ」と言われても。

 2020年春、田中はキャッチボールができるようになっていた。

 だが、そこから先の時期に、新たな苦しみを味わうことになる。

「いちばんきつかったのは……どの場面もきつかったですけど、やっぱり投げ始めてからですかね。(1度目の)緊急事態宣言が出ていた5月くらい」

 朝、目が覚めて左腕を曲げ伸ばしする。状態はいい。練習場に着き、キャッチボールを始める。慎重に強度を上げながら、腕を振る。

 すると、ヒジが痛みだす。しばらくは投げられない。そんなことが「何度もあった」。

 ボールを扱う練習が始まるとともに、前進している感触を実感し始めていた。だからこそ、進んだのに戻らなければならないもどかしさは大きかった。

「うまくいかないことばっかり。『そんなもんだよ』と言われても、一喜一憂してしまう。痛みで投げられなかったりすると、トレーニングに身が入らないこともありました。いま振り返ると、もったいないなって思いますね」

 ただ、やがて田中は自分の心をうまく操れるようになっていく。

「やっていくなかで、楽しく過ごせるようになっていきました。マイナスなことばかりを考えていたときもあったけど、そんなんじゃダメだなって。投げられるんだから、楽しくやろう。いまを生きる、というか。すごくポジティブになれました」

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 前向きに練習に取り組む田中の姿からエネルギーをもらっていたのが東克樹だった。2020年2月にトミー・ジョン手術を受けた東は、田中の背中を追いかけるようにリハビリに取り組んだ。先日のインタビューで、前を行く先輩の存在が「支えになった」と話していた。

 田中は言う。

「東にそう言ってもらえて、一生懸命やってきてよかったなと思います。(トミー・ジョン手術から復帰までの)道筋をぼくがつくれたんじゃないか、というところはある。東だけじゃなく、平良(拳太郎)もいますし、これからも同じ手術を経験する選手が出てくると思うので、そういう人たちにとって、ぼくが希望の光になれたら」

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勇気を持って踏み出した一歩。

 手術から2度目の年越しを迎えた。2021年1月末の段階で、田中が語っていた言葉には悲観的な響きがあった。

「いい日、悪い日が続く」

「投げるほうはちょっと停滞しているような感じ」

「(復帰登板は)いまの段階では、ちょっと見えてこない」

 苦笑交じりに、こんなことも言っていた。

「いろいろ経験してるんで、大丈夫だと思います。あとは“ヒジさん”がね……。だいぶ会話しましたよ。『どうなんだ?』『いけるだろ』って」

 その直後、キャンプインした田中は、勇気を持って一歩を踏み出す。現状を打破するには、そうするしかなかった。

「ブルペンで投げているだけじゃ、いつまで経ってもこのままなんだろうなって。ちょっと無理をしてでも、バッターに対して、強度を上げて投げていかないと。(その段階に)行かなきゃわからないだろうし。行ってみてダメなら、また休めばいい」

 そうして3月16日、春季教育リーグでの実戦復帰登板が実現する。手術から1年7カ月、最後の実戦登板から数えれば2年半が経っていた。自分の名前をコールされ、観客の拍手で出迎えられて、心臓の鼓動は早まった。

「めちゃくちゃ緊張しました。ここまでがんばってきてよかった、と。でも、『もっとがんばろう』のほうが強かった」

 意を決して試合のマウンドに立った結果は吉と出た。イースタン・リーグでは、ヒジの状態を慎重に見極めながらもハイペースで登板を重ねた。

 6月17日には、支配下登録。育成選手の間「046」だった背番号は、かつての「46」に戻った。

「トミー・ジョン手術に対して、すごく理解していただいた。『また46を着けて投げるんだ』というのは、ひとつのモチベーションにもなっていました。球団には感謝しかないです」

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「とにかく楽しかった」

 7月30日、五輪期間中のエキシビションマッチを戦うため仙台へと移動した一軍のチームに、田中は合流した。三浦大輔監督からは「ここがゴールじゃないぞ」と声をかけられた。

 7月30日と、中1日を挟んだ8月1日、イーグルス戦で1イニングずつを投げた。田中は振り返る。

「ガチガチすぎて(笑)、1試合目の最初のほうはあんまり覚えてないんですけど。やっぱり、みんなレベル高いですし、あの緊張感は一軍に行かなきゃわからないことですし……。でも、とにかく楽しかったです。ほんとに楽しくて、楽しくて。結果はたまたまゼロで抑えられましたけど、2点、3点取られても、『楽しい』って言ってたと思います」

 登板後もヒジに異常はなく、一軍の実戦に耐えうる状態であることが確認できた。8月14日に再開する後半戦へ向け、モチベーションが一段と高まる時間だった。

「とにかく一軍に行かないと何も始まらないと思います。後半戦、一軍でプレーをして、東だったり平良だったり、また故障で苦しんでいる野球少年だったり、ファンの皆さんだったりを、勇気づけていければなって。いつ呼ばれてもいいような準備は常にして、待機していたい」

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 復帰まで、想定以上の時間を費やした。遠すぎて見えなかった目的地が、いまは目の前にある。そこに立つ自分の姿を、はっきりと思い描ける。

 田中は言った。

「楽しみです。できれば、(復帰登板は)横浜スタジアムがいいですね」

 最後にハマスタで投げてから約3年。痛恨の記憶をそのままにしてはおけない。

 リハビリのゴールラインが、新たな野球人生のスタートラインになる。