FOR REAL -in progress-

やさしき人、17年目の到達点
――J.ロペスが歩んだ“順応”の道

2020/11/02

優勝を目指して戦う横浜DeNAベイスターズ。その裏側では何が起こっているのか。
“in progress”=“現在進行形”の名の通り、チームの真実の姿をリアルタイムで描く、もう一つの「FOR REAL」。

 打球の行方を最後まで見守ることなく両手を掲げた。一塁側のベンチを向いて少年のようにぴょこんと跳ね、左右それぞれの人差し指で天を指した。

 2020年10月31日、J.ロペスは太平洋をまたいで稀有な記録を残した。メジャーリーグで1000安打。日本のプロ野球で1000安打。この順番で節目の数字をクリアした初めての選手になった。

 達成の一打は、太い腕を伸ばして力で引っ張る左翼席へのホームラン。ファンが幾度となく目にしてきた、彼らしい弾道だった。

forreal

目標だった「メジャーで10年」。

 南米ベネズエラで生まれ育ったサッカー好きの“チャモ(やんちゃ坊主)”は、「趣味としてやっていた」野球で才能を見いだされた。「プロになるチャンスがある」。スカウトにそう声をかけられ、14歳のとき、MLBに通じるアカデミーの門をくぐった。

 道のりは順調だった。シアトル・マリナーズに入団し、20歳でメジャー初昇格。やがてレギュラーになり、オールスターにも出場した。

 当時、胸に秘めていた目標は「メジャーで10年」。しかし、7年目あたりから徐々に成績が落ちた。移籍を繰り返し、マイナー契約からのスタートを強いられることも多かった。

 日本球界からのオファーが届いたのは、シカゴ・ホワイトソックスとの契約が切れた2012年オフのことだ。新天地に挑むと決めた。

 ロペスは言う。

「実質的には約8年間のメジャー生活。1000安打を達成できたけれど(通算1005安打)、目標の10年には届かなかった。でも、来日した最初の日に気持ちを切り替えたんだ。『日本の野球に順応しよう』って」

 ジャイアンツの一員として迎えた春季キャンプ。その初日、スプリント走のメニューが多く組まれていた。よく走る日本式の練習に慣れようと必死になっていたロペスの肩を叩いたのは、阿部慎之助だ。

 阿部は言った。「大丈夫、大丈夫。まだ初日だから、そんなに焦らなくていいよ」。キャプテンの一言で気持ちは軽くなった。

 プロ野球の練習スタイルはアメリカのそれと大きく異なる。たとえばバッティング練習。ケージが2カ所あり、グラウンドでは同時に守備の練習も行われる。ロペスは「いろんなところからボールが飛んでくる。慣れるまでちょっと時間がかかったね」と、往時を思い返して苦笑する。

 日本でのシーズン初年度の開幕戦、東京ドームで打ったホームランが新たなキャリアの第一歩になる。以後、攻守で期待に応えながら、自らを日本になじませる努力を惜しまなかった。阿部や長野久義とよく言葉を交わし、日本人の思考や振る舞いの流儀を教わった。

「コーチがもう一人いる」

 2年間の在籍ののちジャイアンツを退団したロペスは、新たにベイスターズと契約を交わした。その初年度から通訳を担当することになったのが天野祥だ。ベイスターズで働き始めた1年目であり、通訳として仕事をするのも初めてだった。

 通訳の職務は多岐にわたり、異国生活で不自由も多い選手のためにさまざまな用事をこなす。天野は緊張しながら、元メジャーリーガーの求めに献身的に応じた。

forreal

 やりとりを重ねるなかで、意外に思うことがあった。天野は言う。

「頼みごとをするとき、『ありがとう』とか『申し訳ないんだけど』という言葉を必ず添えてくれるんです。ちょっと多すぎるんじゃないかってぐらいに。ぼくはペルーで仕事をした経験があってラテン系の人たちとも接してきましたけど、そんなに細やかな気遣いができるイメージはなかったので驚きました。まして、メジャーでもバリバリやっていたプロ野球選手が」

 ロペス自身によれば、そうした配慮は日本に来てから学び取ったところが大きいという。だが、生来のやさしさを備えていることもまた事実だった。普段、街を歩いているとき、女性やお年寄りにさりげなく道を譲る姿を天野は何度となく目にしている。

 そのやさしさは、チームメイトに対しても発揮された。教え好きの性分も手伝って、若い選手たちや、あとから加入してきた外国人選手たちの兄貴分のような存在になっていく。ジャイアンツにいたころ阿部や長野が教えてくれたことを、今度は自分が伝える番だという使命感もあった。

 たとえば、2017年から2年間在籍したJ.ウィーランドは、試合中、ファーストを守るロペスにアイコンタクトを送ることがあったという。次の打者はどんなタイプなのか、どう攻めるのがよいのか。日本球界の先輩に、それとなくヒントを求めていた。

 同じ南米出身のN.ソトにとっても、ロペスはこの上ない教師だ。内野守備走塁コーチの永池恭男が明かす。

「ソトがセカンドでノックを受けているとき、いつもソトの後ろにいて積極的にアドバイスをしてくれています。ノックが終わってからぼくが通訳を介して言うよりも、ロペスさんが直接言ってくれたほうが正確なニュアンスで伝わるはず。だからすごく助かってますね。内野守備コーチがもう一人いる。ぼくはそう思ってます」

 チーフ打撃コーチの田代富雄も同意見だ。

「アメリカとの違いを、ソトやT.オースティンなんかにいろいろとアドバイスしてくれてるよね。バッティング練習が終わったら打席の足元を均すとかね、そういう小さいことも言ってくれてるんじゃないかな」

forreal

大和のホームランボール。

 実績と、現在進行形の野球に取り組む姿勢あるいは情熱が、ロペスの言葉に説得力を与えている。

 田代が言う。

「バッティングが少しおかしくなると、若手が早出特打してるところに入ってくるからね。そのあとのゲームで打てたとしても、自分が納得してなければ次の日も来る。野球の怖さを知ってるんじゃないかな。ほんのちょっとのことで崩れて、打てなくなる。だからバッティング練習でも一球も手を抜かない。休みの前じゃなきゃ酒も飲まないしね」

 2018年シーズンからベイスターズの一員となった大和も、加入当初からロペスの姿に刺激を受けてきた。特別扱いを求めることなく練習に臨む姿勢やコミュニケーションの取り方を見るにつけ、いわゆる“助っ人”というよりも「日本人の先輩の一人」としか思えなかった。お互いに他球団からやってきた身。体験談などを語り合ううち、ふたりの仲は深まっていった。

forreal

 大和が強く印象に留めているのは、いっしょに食事に出かけたときのことだ。

「日本語が難しいだとか、日本の食事はどうとか、そういう話の流れでチャモ(ロペス)が言ったんです。『おれたちはこっちに野球をしに来てる。もちろん、合う合わないはあるよ。だけど、私生活の部分も含めてすべてこっちに合わせなきゃいけないんだ』って。それを聞いて『そこまでしてるんだな』って、ちょっと衝撃を受けました」

 昨年、ひとつの事実が判明した。ロペスの義理のお母さんが、大和の大ファンだというのだ。それを知った大和は「ホームランボールをプレゼントする」と約束した。

 昨シーズンはホームランを打てず約束は果たせなかったが、今年は4本塁打。東京ドームで放った第1号は無観客のスタンドから無事に回収され、大和がサインを書き込んでロペスの手に渡された。

「チャモ、喜んでくれてました」

 大和は笑顔で言った。

スランプ、故障……苦難の道のり。

 今年、ロペスがベイスターズに入団して6年目になる。そのぶん年齢も重ね、今月には37歳の誕生日を迎える。

 大記録達成までの過程で、当然、困難な時期も通らなければならなかった。

 移籍2年目の2016年8月、深刻なスランプに陥った。30打席連続でヒットから見放された。

forreal

 そのころ、トレーナーの高橋宏昌はある光景を偶然見かけている。ロッカールームで、ロペスが、身につけていたTシャツや靴下などを脱いでは次々とゴミ箱に入れていたのだ。高橋は言う。

「すごくゲンを担ぐところがありますね。打てないことが続くと、それまで使っていたものを全部変えてしまう。当時はよく私がテーピングをしていたんですけど、それも別のトレーナーに代えたり。マッサージのときに使うベッドなんかもよく変えてました」

悔しさや怒りは胸のうちにあっただろうが、その矛先を誰かに向けることはめったになく、ポジティブな気持ちを忘れぬよう自らに言い聞かせた。試合の打席に立ち続けることが最良の解決策だと信じた。

 だから、あのとき辛抱強く起用を続けてくれたA.ラミレス監督に感謝の念は尽きない。長いトンネルを抜けるとたちまち打ち始め、同年9月、月間MVPを獲るまでに調子は上がった。

 のちに高橋は一度だけ、ロペスが感情をあらわにする場面に遭遇した。当時、足に故障を抱えており、試合に出られるかどうか微妙な状態だった。

 高橋はトレーナーとして、完治するまでGOサインを出すわけにはいかなかった。しかし、もう回復したと感じていたロペスは出場を強く訴えた。

「ちょうどご家族が来日していた時期で、ロペスはプレーしている姿をどうしても見せたかったんだと思います。でも、まだまだシーズンは残っていたし、しっかり治して最後までプレーすることのほうが大事だとぼくたちは思っていた。時間をかけて話をして、最終的には納得してくれました」

 自身の感覚では「できる」と思っていることを止められた。出場意欲の塊のような男はさぞ悔しかっただろう。

 だがその年、復帰したロペスは、故障を再発させることなくシーズンを終えられた。試合に出たい、勝利の喜びを味わいたいという強い思いから一時的に感情が高ぶることはあれど、ひと呼吸を置けば、相手もまたプロフェッショナルなのだと認め、敬意を示す。それがロペスだ。

 高橋と向き合ったときのことを思い返し、苦笑交じりに言った。

「あのとき高橋さんは自分の治療のためにすごく一生懸命になってくれた。高橋さん、そしてトレーナー全員に感謝したいと思う」

「厳しいかな」と思った時期も。

 2020年、春季キャンプイン前日。宿舎のホテルでロペスの姿を見かけた高橋は、例年とは異なる雰囲気を感じ取る。

「顔や体がいつもの年よりもシャープに絞れている感じがしました。今年に対する気持ちの表れなのかな、と」

 ロペスは基本的に数字を追いかけない選手だ。ただ、高橋が悟ったとおり、日米にまたがる通算2000本安打に対してはひそかなこだわりを持っていた。

 天野が言う。

「去年ぐらいから、節々でその話をするようになりました。少しお酒が入ったときに『この数字はいちばんの目標なんだ』とこぼしていたこともあった」

 しかし、コロナ禍の混乱のすえ開幕にこぎ着けた今シーズン、ヒットを生み出すペースは捗らない。通算2000安打までの残り「66」が遠く感じた。ロペスは言う。

「シーズンが始まってみると、自分のバッティングの調子があまりよくなかった。足の状態があまりよくない日もあったし、試合に出たり出られなかったり。『(記録達成は)ちょっと厳しいかな』と思った時期もあった」

 試合に出続けることで光明を見いだすやり方も、今年は効果を表さなかった。8月下旬には、ファームに場を移して復調を期すことになった。故障以外での降格は、ベイスターズ入団以来初めてのことだった。

 そこにいたのがトレーナーの高橋だった。今年からファーム担当になっていた高橋のサポートを、ロペスは受けることができた。

「マッサージやトリートメント(治療)をしてもらって、そのおかげで状態はすごくよくなったんだ。一軍に昇格するときのコンディションは、ファームに来たときとは大違い。『これはいけるぞ』という自信があった。通算2000安打も、日米各1000安打も達成できる、と」

 10月24日、秋晴れの横浜スタジアムでレフト前ヒットを放ち、まず日米通算2000安打をクリアした。そして、ちょうど1週間後の31日、外国人選手として史上初めての日米各1000安打を豪快なホームランで決めた。

forreal

 日本の野球を学び、日本の文化を受け入れ、日本人の輪の中に自然と溶け込む存在になった。ただ、自らの芯の部分は不変だった。「バッティングも、守備も、自分のプレースタイルは変えていない」。確立した自己を、異国の地でいかに輝かせるか。日本に降り立った初日に誓った「順応」。それに成功したからこそ到達できたマイルストーンだ。

家族に会いたい。

 メジャー時代の最も忘れがたき瞬間は「イチローがシーズン最多安打記録を塗り替えた場にいられたこと」だとロペスは言った。84年間にわたり破られることのなかった記録の更新。2004年当時メジャー1年目だったロペスにとって、祝福に沸くセーフコ・フィールドの光景は感動的だった。

 あれから16年が経つ。ベイスターズの背番号2は、横浜スタジアムの大喝采を我がものとした。イチローの偉業がロペスを感動させたのと同じように、ロペスの記録達成はそこに居合わせた人々を幸福感で満たした。ともに戦う仲間たちをも誇らしげな気持ちにさせた。

試合後のセレモニー。球団が用意した映像には、遠く離れて暮らす家族をはじめ、これまで支えてくれた人々が次々に登場し、ロペスは涙をこらえることができなかった。

forreal

 大和は前々から、ロペスに「記録を達成したらパーティーをしよう」と言われていた。しかし、いまは状況がそれを許さない。愛する家族もシーズン中の来日はかなわず、静かな夜を過ごした。

 ロペスは言う。

「記録を達成できて、セレモニーまでしていただいて、日本で野球をしてきて最高の一日だった。ただ、試合には負けてしまったし、分かち合える家族もいなかったから。そこは少し寂しさもあった」

 日本での通算200本塁打まで残り3本。日米通算300本塁打まで残り11本。次なる節目は間近に迫るが、微笑とともに首を振る。

forreal

「いまは先のことはあまり考えていない。とにかくしっかりと今シーズンを終えて、家族に会って、ゆっくり休んでから来シーズンに向けて準備をしたいと思う」

 妻と2人の子どもたちの肩を抱き寄せられる日を、いまはただそれだけを待ち望んでいる。