私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.057

2019.11.08 fri

落合博満さんからの教えで開眼
球団初の3割40本100打点プレーヤー

COLUMN by 多村 仁志

 ホエールズ・ベイスターズ所属の選手として史上初めて、大打者の証明と言われるシーズン打率3割、本塁打40本、100打点を2004年に達成した多村仁志。5ツールプレイヤーとして活躍したその姿は、メジャーリーガーを彷彿させるスケールの大きな選手だった。
 1994年のドラフト会議で横浜高校から4位で入団した多村は、地元出身の選手ということもあり期待される存在だった。台頭したのは3年目、日本一前夜の97年。翌年へと希望を抱いていた多村ではあったが、予期せぬアクシデントが襲う。
「新しく監督になる権藤博さんから『来年はお前をセンターで使うから』と言われていて、オフに万全を期すため痛めていた右肩の手術に踏み切ったんです。開幕には間に合うという話だったのですが、患部を開いてみたら想像以上にひどく、目を覚ますとボルトで固定をする大手術。日常生活には復帰は出来るものの選手としては戻れるかどうかと主治医から聞かされました。とてもショックでしたが、終わってしまったものは仕方がない。

 結局98年は、1年間リハビリに時間を費やすことになりました。レギュラーになれたかもしれないチームは優勝に向かい快進撃をつづけます。悔しいという思いはもちろんありましたが、最後は優勝して欲しいという気持ちで見ていました。とにかく焦らず、心を落ち着かせながら、早くあのチームに合流したいなって。
 手術はこれまで前例がないものだったし、良くなっては悪くなるの繰り返しでした。不安でしたし、じつはわたしの右腕は今も肩から上にはあまり上がりません。ですから投げ方を変えたりしなければなりませんでした。しかし怪我の功名ではないのですが、右腕が使えない分、左腕がかなり鍛えられ“バットを引く”という力が身に付いたんです。これによって急激にボールの飛距離が伸び、さらに泳がされても最後まで体を残してスイングができるようにもなりました。つらく苦しいリハビリでしたが、あのときの経験が確実にその後に繋がったと思います」
 怪我からの復帰後、多村は一軍の試合に出場するもののコンスタントに結果を出すことができず、首脳陣から信用を得るまでには至らなかった。だが01年の春季キャンプ、ある人物との出会いにより、背筋を伸ばしスッと自然体でバットを構える多村独特の“神主打法”の誕生のきっかけをつかむ。

「わたしはチームの方針で右の長距離打者になるべく、入団からしばらくファームの竹之内雅史コーチに昼夜問わず徹底的に鍛えられ、ボールを遠くに飛ばせるようになっていました。00年当時、わたしはメジャーリーグが好きなこともあってローズを師匠としていろいろとアドバイスを受けていたんです。だからフォームはローズに似たモノでしたし、現役最後までローズモデルのバットを使用していました。しかし臨時コーチでキャンプに来ていた落合博満さんがわたしのフォームを見て『それじゃ何時間も打てないだろう?』と声をかけてくれたんです。実際長時間やってみると下半身は疲れるし、力も入れづらくなってくる。するとだんだん上体が立ってきて、傘を持つような体に負担がかからないフォームになっていきました。落合さんは『それがお前の自然体だよ。その状態から動き出せばタイミングも取りやすいし、速いスイングができる』と。なるほど、これなんだとわたしとしては重要なきっかけをいただくことになりました。
 その後、山下大輔さんが03年に監督になると、世代交代の波もあり出番が増えていきます。
ただ、まだ確実性が低く凡打することも多かったのですが、それでも山下さんは信用して我慢強くわたしを起用しつづけてくれました。そのおかげであることはもちろん、わたしの後ろに好打者の金城龍彦が控えていたこともあり、04年は3割、40本、100打点という数字を残すことができたんだと思っています」

(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

多村 仁志

1977年3月28日生まれ。神奈川県出身。横浜高から94年ドラフト4位で入団。2003年に18本塁打を放って頭角を現すと、翌年に40本塁打で大ブレーク。06年のWBCでは本塁打と打点のチーム二冠で初代世界一に貢献した。同年オフにトレードでソフトバンクに移籍し、10年にはベストナインに輝きリーグ優勝、11年には日本一を達成。13年オフにトレードでDeNAに復帰したが、15年オフに戦力外となり育成契約で中日に入団。16年限りで現役を引退した。通算成績は1342試合、1162安打、195本塁打、643打点、打率.281。