私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.045

2019.10.21 mon

病室で見たチームの躍進
忸怩たる想いで芽生えた反骨心

COLUMN by 斎藤 隆

「僕は横浜大洋ホエールズ最後の年のドラフトで入団しましたが、チームには東北福祉大学の先輩である佐々木主浩さん、宮川一彦さんがいたので、あまり環境の変化に戸惑うことはありませんでした。あと、最後の現役の年だった遠藤一彦さんによくしてもらったのを覚えています。同じ東北出身ということで声をかけてくださって、野球用具の会社を紹介していただいたりしました。
 じつはルーキーイヤーはキャンプのときから右肩痛を発症していて、オープン戦で限界がきて、開幕してからは痛み止めを飲んで投げていたんです。ドラフト1位ということで注目され、プレッシャーもあって無理をしてしまいました。結局ケガの影響もあり、初年度は1勝もできず終わりました。とにかくプロは体の頑丈さや体力が求められる世界だということを痛感させられました。
 2年目にホエールズは横浜ベイスターズに生まれ変わるのですが、同時に若手選手に切り替えるチーム方針だったようで、僕も新たな気持ちで頑張ろうと気合が入りました。また監督に就任した近藤昭仁さんにも目を掛けてもらって、チャンスを多くいただけるようになりました。この年は8勝でき、これはすぐ二桁勝利できると思ったんです。しかし、3年目、4年目になってもその壁は破れない。どうすれば勝てるのか解決策のないままマウンドに上がっていたという感じです。期待をかけられているのにも関わらず、思うような活躍ができない。まわりからは直接言われないまでも『斎藤はドラ1なのに……』という雰囲気が伝わってくるんです。当時は自分以外に原因があるんじゃないかと訝ったりもしました。例えば打線が打ってくれないとか。今思えば、甘いし若かったなって……。必死になってマウンドで頑張っても悔しい思いばかり。たまに上手くいって『掴んだかな』と感じても、結局はまた悔しい思いをする。まあ、徐々にですが、プロのピッチャーというのは、1年間波を少なくして高いパフォーマンスを維持しなければ勝てない、ということを理解していきました。

 そして5年目の1996年にようやく二桁勝利できるのですが、そのときは本当に嬉しかったですね。とくに感謝したいのはバッテリーコーチ、そして監督として面倒を見てくれた大矢明彦さんです。僕がいつ開花するか、とにかく我慢して使ってくれました。大矢さんじゃなかったらきっと匙を投げていたと思いますよ。僕の両親も『大矢さんぐらいだよね。わたしたちと同じぐらい手に汗を握って我慢してくれたのは』と言っていましたからね(笑)
 二桁勝利を挙げホップ、ステップ、そしてジャンプの年としようと思っていた97年、思わぬことが起こります。キャンプを順調に過ごしたあとのオープン戦で右肘を痛めてしまったんです。関節に軟骨が挟まってしまい腕が完全にロックしてしまった。朝起きたら、腕がまったく動かない状態になってしまったんです。痛みもあり、あの感触は今でも覚えています。
 当時は前年の活躍しかり、またチームも強くなっていたこともあり、無理をしてでも投げたいという気持ちはありました。普段であれば違和感があるとまったく投げたいと思わないのに、福盛和男や戸叶尚といった若い投手が下から成長していたので焦りもあったのかもしれません。
 しかしドクターストップで、結局手術になりました。実際に患部を開いてみたら診断よりも酷い状態だったそうです。
病院で一般の患者さんと一緒に、調子がよかったベイスターズの試合を見ていたんですが、忸怩たる気持ちというか、どうして俺はあそこに立っていないんだろうという思いばかりでした。ピッチャーにとって一番つらいのは、マウンドに立てないこと。僕はチームの躍進を横目に、とにかくリハビリに励みました。あのとき野球から離れて感じたのは、悔しさはもちろん、野球に対する思いの深さです。後年、あのときの経験が自分を支えてくれたし、長年野球をつづけることができた要因になっていると思いますね」

(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

斎藤隆

1970年2月14日生まれ。宮城県出身。東北高、東北福祉大を経て、91年ドラフト1位で入団。2年目の93年に規定投球回に達すると、96年には初の2ケタ勝利を挙げ、最多奪三振のタイトルも獲得した。98年には13勝5敗1Sの好成績で38年ぶりの日本一に貢献。2006年にドジャースへ移籍し、レッドソックス、ブレーブスなどで活躍。13年に地元・楽天に入団し、15年に現役を退いた。日米通算成績は741試合、112勝96敗53H139S、防御率3.50。