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No.040

2019.10.8 tue

「狙っていた」ハマスタ第1号
相手に恐れられた強打の8番打者

COLUMN by 福嶋 久晃

 オープンしたばかりの横浜スタジアムの空に白い放物線が描かれる。高く舞ったボールはレフトスタンドへ吸い込まれていった――。
1978年4月17日、福嶋久晃は広島戦で、横浜大洋ホエールズにとってハマスタ第1号となるホームランを放っている。
「そりゃ、やっぱり狙っていましたよ」
 福嶋はそう言うとニヤリと笑った。
「大穴の一発」。当時の週刊ベースボールにはそう記されてあった。ホエールズのハマスタ第1号は強打者である松原誠や田代富雄だろうというのが大方の予想だったが、記念すべき一発を放ったのは8番打者の福嶋だった。
「わたしは“意外性の男”と言われていたからね(笑)。4回裏、相手のピッチャーは北別府(学)。ノーアウト、ランナー1塁。1ストライク、3ボールから北別府はカーブを放ってきた。甘く見られたよね。フォアボール覚悟で勝負するなら、北別府はシュートを投げるはずだから」
 1975年から6年連続して二ケタ本塁打を放っている福嶋の打棒は、並のキャッチャーのものではない。1981年には1試合8打点を挙げ、また巨人のエースである江川卓を得意にしていたというエピソードも残っているほどだ。
「この一打が決勝弾になったし、チームのハマスタ第1号だから本当、嬉しかったよね。賞品はなにか出たのか? うーん、ビデオカメラをもらったような気がするけど、もう忘れちゃったよ(笑)」

 ホエールズ在籍18年間、同級生の平松政次をはじめ数々の投手のボールをミットで受けてきた。1960年代のエースである稲川誠、平松と“両輪”を形成したサブマリンの山下律夫、そして完全試合を達成した島田源太郎と佐々木吉郎。多くの名ピッチャーから学び、福嶋は成長したという。
「勉強になったのは野村収さんだね。1978年にチームに復帰すると17勝で最多勝、カムバック賞を獲得するんだけど、野村さんはノーサインだったんです。『お前はノーサインでも捕れるだろ』って言うんだけど、ランナー3塁とかで後逸するのは怖いと言ったら野村さんからサインを出すと言ってくれたんです。投球前のボールの持ち方や腕の角度とかで球種を判断するんだけど、投手の心理を学ぶことができましたよね」
 また印象深かったのは、球団初のストッパーとして1960年代後半から1970年代にかけて活躍した小谷正勝だ。のちに投手コーチとして佐々木主浩や斎藤隆、三浦大輔を育て上げ、他球団においても多くの名投手を輩出した指導力に長けた名伯楽である。
「まあ温厚そのもの。まったく動じることのないピッチャーでした。打たれたらバッターが上手い、と引きずることのない精神力の強さがありました。打たれてマウンドに行くと『悪かったなあ』と絶対にキャッチャーを責めないし、ベンチに戻っても『自分が悪い』と首脳陣に対しフォローをしてくれる。わたしには『お前は真ん中構えておけ。俺が振り分けるから』と言う、肝っ玉ピッチャーというか、頭のいい人でバッターの心理が読める人でした。だからこそ、その後、素晴らしい指導者になれたんだと思いますよ」
 いいピッチャーはキャッチャーを育て、また、いいキャッチャーはピッチャーを育てる。「バッテリーのこういった信頼関係が生まれなければチームは強くならない」と、福嶋は確信をもって語る。
 1984年シーズンまで大洋に在籍した福嶋は、翌年にかつてドラフトで指名を拒否した広島に縁あって移籍をし、1年で引退。1987年から一軍バッテリーコーチとして、再び愛着のあるマルハのユニフォームを身にまとっている。
「ホエールズは他人とは思えない親近感のあるチームでした。職種は違うけど、同じ大洋で懸命に仕事をしている親戚や知り合いがいると思うと頑張ることができた。今も常に気にかけているチームですし、現役の選手たちにはこれからも頑張ってもらって、いつまでも自慢のできる“故郷”にしてもらいたいですよね」 (前編はこちら)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

福嶋久晃

1947年4月10日生まれ。和歌山県出身。PL学園高、大昭和製紙を経て67年ドラフト外で入団。1年目から出場機会を得ると、75年に正捕手の座を射止め、同年から6年連続2ケタ本塁打。強肩強打のキャッチャーとして鳴らす。78年には開場した横浜スタジアムでチーム第1号本塁打を記録。85年に広島へ移籍。同年限りで引退し、コーチ就任。87年から89年までは古巣・大洋でコーチを務めた。通算成績は1254試合、702安打、107本塁打、370打点、打率.239。