私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.039

2019.10.7 mon

あの“ミスター”が狙っていた!?
70〜80年代の大洋を代表する捕手

COLUMN by 福嶋 久晃

 まさに生粋の“マルハの男”――。
 1970年代から1980年代初頭にかけ、強肩好打のキャッチャーとしてチームを牽引した福嶋久晃は、生まれながらにして“ホエールズ魂”を宿した選手だった。
 出身地は和歌山県太地町。ここは古くから鯨文化の栄えた土地であり、大洋漁業の捕鯨基地があった港町である。福嶋にとってマルハは、一家の生活を支える身近な存在だった。
「父親は漁船の船長だったし、親戚は南氷洋捕鯨の鉄砲撃ち。うちの一家にしてみれば本当、マルハさまさまですよ」
 必然的にホエールズファンとなった福嶋は野球に熱中すると名門PL学園に進み、甲子園に出場。1965年のドラフト会議で広島カープに8位指名されるが、これを拒否している。
「親戚や地元の後援会の人がわたしに言うんですよ。『お前は鯉(カープ)じゃなく鯨だろ』って。まあ大洋には足を向けられないし、それで断ったんだけど、広島もありがたいことに理解してくれたんですよ」
 その後、福嶋は大昭和製紙に入社し都市対抗野球で活躍すると1967年にドラフト外で大洋に入団。ついに幼きころから慣れ親しんだマルハの船に乗り込み、航海へと出ることになった。
「入団が決まったときは、親やまわりの人がすごく喜んでくれて嬉しかったですよね」
 福嶋はそう言うと顔をほころばせる。
 だが、順風満帆とはいかず、行く先には荒波が待ち受けていた。
「入団したときキャッチャーが9人もいたんですよ。それを知ったときはとんでもないところに来てしまったなと……。母親には3年やってダメだったら地元に帰って船に乗るからと言いましたよ」

 だが福嶋は1969年のイースタン・リーグで首位打者を獲得するなど持ち前の打撃力と強肩を武器に頭角を現し、4年目の1970年には伊藤勲、大橋勲に次ぐ3番手捕手として一軍に定着する。
 しかし、あくまでも控えの立場。レギュラー獲得までの道のりはまだ先だった。
「8年目が終わったときだったかな、あまりにうだつが上がらないから選手を辞めようと思ったんですよ。女房も納得してくれて、田舎で暮らそうって。それで、球団に行って辞めると伝えたら、烈火のごとく怒られた。控えのキャッチャーですよ。どうしてそんなに怒られるのかまったく理解できなかった」
 その理由は、後年知ることになる。
「どうやら巨人の監督になる長嶋茂雄さんがわたしのことを買ってくれていて、フロントに福嶋を獲ってくれというお願いをしていたそうなんです。当時の巨人はV9時代を支えたキャッチャーだった森祇晶さんの後釜を探していた。そこで、打てて肩の強いわたしに白羽の矢が立った。実際、大洋は巨人から打診を受けていて、わたしの見返りに二桁勝利を挙げたことのあるピッチャーを要求したらしいのですが、実績に乏しいわたしとトレードが成立するはずもなくご破算になった、と。そんな事情をまったく知らないわたしが、いきなり球団事務所にやって来て辞めると言う。大洋としては裏があるんじゃないかと勘繰って怒ったようなんです」
 福嶋は球団から「来季も戦力に入っている」と説得され慰留を決意。翌年の1975年に就任した秋山登監督のもとレギュラーとして定着すると、以後、長きにわたり扇の要としてチームを支える存在になっていった。

(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

福嶋久晃

1947年4月10日生まれ。和歌山県出身。PL学園高、大昭和製紙を経て67年ドラフト外で入団。1年目から出場機会を得ると、75年に正捕手の座を射止め、同年から6年連続2ケタ本塁打。強肩強打のキャッチャーとして鳴らす。78年には開場した横浜スタジアムでチーム第1号本塁打を記録。85年に広島へ移籍。同年限りで引退し、コーチ就任。87年から89年までは大洋でコーチを務めた。通算成績は1254試合、702安打、107本塁打、370打点、打率.239。