私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.034

2019.09.12 thu

1982年首位打者獲得の裏に
先輩・関根潤三の存在アリ

COLUMN by 長崎 慶一

 ひょっとしたら大洋初の日本人首位打者は長崎慶一ではなかったかもしれない。じつは長崎は首位打者を獲る前の1981年のオフ、球団にトレードをさせてもらえないかと申し入れている。
「べつに大洋が嫌だったというわけではありません。レギュラーでもありましたし、チームは非常に家族的で居心地良い環境でした。ただ、自分としては打率がなかなか3割を超えず成績的に頭打ちだったし、今後の人生を考えても視野を広げ、外で勉強したいという思いがあったんです」
 だが、それに待ったをかけたのが1982年シーズンから監督を務める関根潤三だった。長崎にとって関根は、法政大学の先輩にあたる存在だ。面談のとき関根は、長崎に次のように言ったという。
「俺がいる間はチームにいろ。俺が出て行ったらチームを離れていいよ」
 後年、関根はプロ野球評論家としてテレビ出演すると優しい温和な雰囲気を醸し出していたが、現場においては厳格な監督だったという。
「かなり厳しいことを言われたのを覚えています。危機感が心に生まれましたね。わたしはレギュラーとしてどこか甘えがあったのですが、関根監督から見えないところで努力する大切さなどを学ばせてもらいました」
 そんな関根の就任もあってか長崎はこれまで以上にヒットを量産しシーズンを過ごすと、ついに首位打者が狙える位置にまでこぎつける。127試合終了地点(当時は全130試合)で.352。打率2位につけていた中日の田尾安志に8厘の差をつけており、長崎自身タイトル獲得は間違いないと確信していた。
 しかしシーズン最終カードとなった中日との3連戦、田尾が最初の2試合で8打数6安打と打ちまくると様相は一変する。もし最終戦の最初の打席で田尾がヒットを打てば長崎の打率を逆転するといった状況だった。
 そして最終戦、しかもこの試合は中日の優勝が掛かった一戦でもあった。緊迫の横浜スタジアム、長崎の首位打者獲得をアシストするべく関根監督がとった手段は、田尾への全打席敬遠だった。結局、田尾の出塁もあり中日が8-0で勝利し優勝を決め、その意味においてこの敬遠策は物議を醸すことになった。
「たしかにあの試合は田尾さんとああいう形になりましたが、自分としては(敬遠策もある)直接対決の前に決着していれば良かったことだったんです。最終戦は、たまたま中日の優勝が掛かった試合でしたが、自分としてはやることはやったと納得しています。また関根さんには首位打者を獲らせていただいたと感謝しているんです」
 そして関根監督が退いた1984年のオフ、長崎は希望通りトレードされ、阪神へと移籍する。奇しくも阪神では、12年間のホエールズ時代には一度も味わうことのできなかったリーグ優勝と日本一を経験することになった。

 長崎はホエールズというチームを改めて俯瞰してみると、不思議でならないことがあるのだという。
「それはどうしてあれほど練習するチームが優勝できなかったのかということです。わたしは他チームを阪神しか知りませんが、阪神は大洋の3分の1ぐらいの練習量に感じたんです。もちろん主力は個人個人で練習しているのでしょうが、それでも若手の体力のなさには驚かされました」
 よくホエールズは練習しないから弱いんだと揶揄されたが、当時からそんなことはなかったと長崎は断言する。
「とくに若い時分から面倒を見てくださった田村武雄トレーニングコーチ指導による走り込みは凄まじいものでしたし、大洋時代のきつい練習があったからこそ、わたしは長く現役をつづけられたと思っています。大洋というチームは選手個々の練習や試合への心構え、勝利に対しての取り組みはどこにも負けなかったと思います。ただ結果が伴わなかった。監督はだいたい2年おきに代わっていたので選手は戸惑いもあったでしょうし、夏前には定位置に落ち着いてしまい目標が見いだせないことも多かった。阪神に行ったから理解できたのですが、わたしは大洋時代、勝つ喜びや楽しさというものになかなか気が付けなかったかもしれないと思いました」
 長崎は深くうなずくと、こうつづけた。
「しかし今のベイスターズは、多くの観客が入ったなかで緊張感をもってプレーし、勝利し、喜びを享受しています。きっとその成功体験がチーム力をアップし、いい結果を引き寄せてくれるはずです。わたしもOBとして、いつもベイスターズには注目しているので、ぜひ頑張ってもらいたいですね」 (前編はこちら)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

長崎慶一

1950年5月13日生まれ。大阪府出身。北陽高、法政大を経て、73年にドラフト1位で入団。2年目の74年、規定打席に届かなかったものの、打率.356で定位置奪取。78年にサイクルヒットを達成し、82年には打率.351で首位打者を獲得。84年オフにトレードで阪神に移籍。その85年シーズンには日本シリーズ第6戦での満塁本塁打などで、球団初の日本一に貢献。87年限りで現役引退。通算成績は1474試合に出場し、1168安打、146本塁打、508打点、打率.279。