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No.033

2019.09.12 thu

巧打者・長崎慶一を変えた
沖山光利打撃コーチの指導

COLUMN by 長崎 慶一

 球団史上、日本人として初めて首位打者となった長崎慶一。今から37年前、1982年のことだった。独特の自然体のフォームからボールを体の近くまで引き寄せ、鋭い回転でバット振り抜きヒットを量産したバットマン。派手さはなかったが、玄人好みの選手だった。
「大洋には12年間所属しましたが、あのタイトルは自分のキャリアにとって大事なものですし、そのシーズンはプロとしての在り方を考えさせられた一年間だったので印象深く残っています」
 長崎は、ヒットメーカーとして光り輝いた日々を想起する。
  法政大学時代、東京六大学リーグで史上初の快挙となる春秋連続首位打者やベストナインなどを獲得し活躍した長崎は、1972年のドラフト会議で大洋から1位指名された。じつは遡ること4年前、北陽高校時代に長崎は、地元の阪神からドラフト8位指名を受けているのだが、これを断っている。
「大学に進学することを決めていたので阪神には行きませんでした。じつはわたしは高校時代から大洋のスカウトだった高松延次さんにずっと見てもらっていて、いずれは大洋へという気持ちがありました。ですから大学に進学するとき高松さんに『大学でも頑張れたら、そのときはよろしくお願いします』とお話をさせてもらったんです」
 晴れて長崎は大学でも活躍をし、高校時代から縁を感じていたホエールズからドラフト指名を受ける。入団に際し迷いはなかった。
「けれども最初はプロのレベルが高く苦労しました。このままでは、野球選手としてやっていけないのではないかと思いましたね」
 ルーキーイヤーの成績は75試合に出場し、打率.222。東京六大学リーグで華々しい活躍をした打者としては物足りないものだった。

 強い危機感を持った長崎は、同世代で同じようにバッティングで苦しんでいた高木由一とともにオフになると打撃コーチだった沖山光利に個人指導を願い出た。
「沖山さんにはシーズンが終わってから毎日つきあってもらい指導していただきました。日々、バットが握れなくなるまで1000本は振り込みましたね。長いときには5時間ぐらいやっていたかもしれません。本当にきつかったのですが、例えば僕ひとりだったら耐えきれなかったかもしれない。高木さんが一緒だったからつづけることができた」
 高木は同じ左打者の外野手。その後、両者はレギュラーとしてホエールズを支える存在になるが、長崎にとって高木は鎬を削る仲間であり強く意識するライバルだった。
 沖山の親身で粘り強い指導により一皮むけた長崎は、2年目に規定打席には届かなかったものの95試合に出場し、打率.356というハイアベレージを残すに至った。
「練習は嘘をつかないということを実感しましたね」
プロとしてやっていける手応えを得た長崎は、翌年からさらに出場機会を増やし、レギュラーへと定着していった。
「沖山さんのおかげでその後の自分があるわけですが、教わったことで大事なことがもうひとつあるんです。それは『ノートを付けろ』と言われたこと。何故ですかと訊くと『やかましい!』と怒られましたが、書き方を教えてもらい一ヶ月ぐらい経つと配球が読めるようになってきたんですよ。球場、審判、バッテリー、状況、配球などきめ細かく記していると、いろいろなことがわかってきた。当時スコアラーはいましたが、感覚的な部分まではわからないので、自分のノートがすごく役に立ったんです。以来、投手のクセや配球を分析するのが、すごく好きになりました」
 人よりも秀でる選手というのは、他の人間がやらない努力をしているものだ。長崎は実戦を経てノートをとることで経験と知識を増やしていき、替えのきかない選手へと成長していく。延いては、それが首位打者獲得へとつながっていった。 (後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

長崎慶一

1950年5月13日生まれ。大阪府出身。北陽高、法政大を経て、73年にドラフト1位で入団。2年目の74年、規定打席に届かなかったものの、打率.356で定位置奪取。78年にサイクルヒットを達成し、82年には打率.351で首位打者を獲得。84年オフにトレードで阪神に移籍。その85年シーズンには日本シリーズ第6戦での満塁本塁打などで、球団初の日本一に貢献。87年限りで現役引退。通算成績は1474試合に出場し、1168安打、146本塁打、508打点、打率.279。