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No.032

2019.09.10 tue

ホエールズ一筋40年
大洋・横浜と歩んだ野球人生

COLUMN by 中塚 政幸

 左打ちのリードオフマンとして活躍した中塚政幸の最大の特長といえば、徹底した“流し打ち”だ。打席では積極的に振っていきファールで粘り、甘いボールがくると三遊間へ鋭い打球を放った。
「わたしの打撃の原点は、出身高校であるPL学園にあるんですよ。じつはホエールズの前身の洋松ロビンズで選手だった綱島新八先生が監督だったんですけど、その人の教えをプロになってもずっと守ってきたんです。確立したものを持つことの大切さ。一貫してそれができたからこそ長く現役を続けられたし、準備を怠らなかったので、先発落ちした時期でも助っ人外国人が活躍できないと、すぐわたしに声がかかりました」
 高校時代のホエールズとの不思議な縁が、中塚を一流のプロ選手へと導く要因になっていたのは興味深い。
「一生懸命だっただけですよ。どんなボールでも振っていくから“ダボハゼの中塚”なんて陰口をたたかれることもありました。ただ、それだけ試合に出ていたから言われていたわけだし、悔しかったら試合に出てみいと思っていましたよ」
 そう言うと中塚はニヤッと笑った。
 1971年に8打席連続安打を放ち、1978年の横浜大洋ホエールズ元年にはキャリアハイとなる.317という数字を残すと、3年連続3割超えを達成した。
「川崎球場から横浜スタジアムに移転して3割超えができたのは、人工芝になりゴロのスピードが速くなったからでしょう。とにかくボールを呼び込んで、強く逆方向にゴロを打てば何とかなると思っていましたから」
 状況に適応するクレバーさは、きっと敬愛する別当監督から受け継いだものなのだろう。

 そんな中塚は1982年のシーズンを最後に現役引退する。キャリア15年、37歳のときだった。
「正直に言えば、まだまだやりたかったし、当時監督だった関根潤三さんに直談判もしたんです。けど、ダメでしたね……。こればかりは仕方がないことです。じつはしばらく経って他球団から来ないかという話があったのですが、もう気持ちが切れてしまっていたし、自分としては何かホエールズのお役にたてればという思いもありました」
 中塚はその後、スカウトを経て一軍コーチを務めると、1989年から1992年までファーム監督として、のちに日本一のメンバーになる佐々木主浩や谷繫元信、石井琢朗らを育て上げる。横浜大洋時代、最後のファーム監督としてユニフォームを脱ぐと再びスカウトに戻り2007年まで勤め上げた。1968年の入団から約40年、中塚はホエールズ・ベイスターズ一筋の野球人生を歩んだ。
「現役時代、もっとも思い入れがあるのが最初の10年間を過ごした川崎時代ですね。観客もお給料もまだ少なく、優勝もできなかったけど、別当さんと出会いプロ野球選手として基盤を築かせてもらいました。本当、がむしゃらにやってきただけで、気がつけば選手生活を終えていたような感じですよ。最後まで泥臭くやれたのは、自分の誇りですよ」
 プロ野球選手として輝きをもたらし、愛着を持つホエールズ・ベイスターズ。中塚は血気盛んな後輩たちの活躍を今日も願っている。
「ここ何年かで優勝が狙える力をつけてきました。わたしとしては優勝や日本一はもちろんのこと、常時優勝を狙えるチームになって欲しいと思っています。選手たちには満員の観客の前で野球ができることを幸せに思い、一生懸命がむしゃらにプレーしてもらいたいですね」 (前編はこちら)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

中塚政幸

1945年6月29日生まれ。香川県出身。左投左打。PL学園高、中央大を経て、1967年ドラフト2位で入団。2年目にレギュラーの座を掴むと、3年目には俊足を買われ、センターへコンバート。主に一番打者としてチームを牽引し、1974年には盗塁王のタイトルを獲得。1982年限りで現役を退き、コーチ、ファーム監督、スカウトを歴任した。現役時代の通算成績は、1643試合、1440安打、61本塁打、387打点、打率.278。