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No.021

2019.08.21 wed

華麗な守備を誇った
ホエールズの名遊撃手

COLUMN by 山下 大輔

 華麗なフィールディングと鉄壁の守備。二遊間、三遊間へ打球が飛ぶと、どんなに速く難しいバウンドであっても柔らかいグラブさばきで捕球し、無駄のないスローイングで走者をアウトにする。1976年から1983年にかけてダイヤモンド・グラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を8年連続獲得した山下大輔は、ホエールズが誇る稀代のショートストップだった。
「守備には一切の気の緩みはなかったですね。僕の哲学は、練習のノック一球であっても、試合でミスをすればサヨナラ負けをしてしまうような緊張感に身を置くこと。なかなかそういった精神状態を練習中から保つのは難しいのですが、とにかくどんな場面であっても一球一球に集中するんです」
 山下は、現役時代の自分を振り返る。
 慶応大学時代、リーグ三連覇に貢献し首位打者1回、ベストナインに4回選出されて“慶応のプリンス”と呼ばれた山下は、1973年のドラフト会議でホエールズに1位指名され、入団を果たす。六大学野球のスター選手の加入を非常に喜んだ中部謙吉オーナーは、山下の出身地である静岡県の名産“みかん”をイメージしたオレンジと緑のユニフォームを採用したという逸話も残っているほどだ。山下は、その真偽のほどは定かではないというが、それほど注目され話題をさらった選手だったことは間違いない。野武士軍団と呼ばれた川崎時代のホエールズに現れた、毛色の異なる爽やかなスター選手だった。

 入団後、プロのレベルに苦しみつつも守備で頭角を現していった山下だが、その才能を開花させてくれた恩人は、当時サードを守っていたクリート・ボイヤーだった。
「ボイヤーさんはヤンキースでゴールドグラブ賞を獲った名手でしたが、ポジション争いをするライバルでもあったので、とくに教えてくれるというわけではありませんでした。ならば盗むしかないということで、ノック中はどんな動きをするのかよく観察していましたね。また当時の大洋はサードにボイヤーさん、ショートは米田慶三郎さん、セカンドにジョン・シピン、ファーストは松原誠さんと名手揃いでした。そういった人たちに囲まれ刺激を受けて育ったといった感じでしたね。ただ、ボイヤーさんはコーチも兼ねていたので、野手のことは監督の秋山登さんから任されていたらしく、盛んに若い僕や田代(富雄)を使えと言ってくれていたようなんです。そういう意味ではボイヤーさんは僕の師であり、恩人でもあるんですよ」
 そんな期待に応えるように山下は1977年8月から1978年5月にかけショートとして322守備機会連続無失策という当時の日本記録を達成するなど、球史に名を残す選手に成長していった。
 川崎球場から横浜スタジアムに移転し1980年代に突入すると、山下は中心選手としてリーダーシップを発揮するようになるが、チームはなかなか勝てず、あまりにも相手チームに貯金を献上することから『横浜大洋銀行』と揶揄されることもあった。なぜあの時代、チームは勝てなかったのか。
「僕は1998年の日本一のときにヘッドコーチだったので後から理解できたのですが、強いチームというのは監督やコーチが何も言わなくても、選手自らが互いに高め合っていくことで怠慢プレーがなくなっていく。しかし当時の大洋のように秋風が吹くチームは、語弊はあるかもしれないけど、どうしても力が入らなくなっていく傾向にあるんです。8月ぐらいになるとペナントの状況が見えてきて、Bクラスが決定する。お客さんも入らず、集中力を欠きチーム全体がひとつになり切れない。すると選手は個人個人の成績に走ってしまうということもある。
顔ぶれを見れば能力の高い選手が多いチームだったけど、1年をトータルで見れば、やはり選手層の厚さが足りなかった。誰か主力が怪我をしてしまうと代わりとなる選手がおらず、チーム成績に直接響いてしまう。投打のバランスの不均衡も含め、そういった時代がつづいてしまいましたよね……」
 個人としては常にスポットライトを浴びつづけた山下であったが、現役中ついにリーグ優勝を果たすことはできなかった。 (後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

山下 大輔

1952年3月5日生まれ。静岡県出身。清水東高から慶大を経て、ドラフト1位で74年に入団。76年から83年まで8年連続でダイヤモンド・グラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞した。81年にベストナイン。88年シーズン前に引退後は、横浜ヘッドコーチ、監督、ファーム監督、楽天ヘッドコーチなど歴任。通算成績は14年間で1609試合出場、1378安打、129本塁打、455打点、打率.262。