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No.019

2019.08.08 thu

“背番号「25」=強打者”の元祖!
ホエールズ史上最高の打者

COLUMN by 松原 誠

 背番号『25』は、チームの中心となる強打者の系譜――。
「背番号は球団のものではありますが、筒香嘉智選手のように自分がかつて付けた番号を背負った打者が活躍してくれると素直に嬉しいですよね」
 1960年代後半から1970年代にかけてチームの四番打者として奮闘し、2000本安打を達成した松原誠は、感慨深い表情でそう語った。
 埼玉県の飯能高校卒業後、1962年に入団したときの松原の背番号は『38』だった。しかしキャッチャーからファーストへコンバートされ、1965年に『25』を背負うことになる。
「当時ホエールズの30番台はキャッチャーの番号だったんです。そこで空いている番号から選ばせてもらったのですが、球団からは『25』は怪我人などが多いあまり縁起の良くない番号だと言われたんです。そうか、ならばむしろ付けてみたいと思ったんですよね。わたしは臍曲がりなものだから(笑)」
 かくしてホエールズの『25』は、強打の持ち主である松原の代名詞となった。
 入団したときの監督は、1960年に球団を初の日本一へ導いた名将・三原脩だった。松原にとってファーストへのコンバートを勧めてくれた三原は“大恩人”だという。
「当時はチームにキャッチャーが多かったこともあり、三原監督から『お前はファーストになって打力を活かせ』と言われたんです。わたしとしても足腰の筋力が弱く、キャッチャーとしては限界を感じていたので逆にチャンスだと思ったんですよね」

 コンバートされた松原は、三原監督の狙い通り打撃を開花させていった。さらにファーストとしては、“タコ足”と呼ばれる地面に股関節が触れるほど開脚をする捕球技術で名手と呼ばれるようにもなった。またサード、ショート、外野を守れるユーティリティー性をも発揮し、攻守ともにチームに欠かせない存在となっていった。
「あと三原監督で忘れられないのが、わたしが2年目ぐらいだったかな。大阪遠征の帰りの夜行電車で『おいマツ、お前は車を持ってないのか?』と言われたんです。こっちはまだぺーぺーで薄給なわけですよ。車なんて買えるわけがない。『なに言ってんだこのオヤジは』と、若かったので心の中で毒づきましたが、考えてみればあの言葉は、わたしを発奮させようとしたんでしょうね。確かに、今に見てろよという思いになりましたし、そういう意味では三原さんは、人の心を動かすことが上手な人でした」
 松原が全盛期を迎えていた1960年代後半から1970年代にかけ、ホエールズの大きな壁として立ちはだかっていたのが、V9時代を謳歌していた巨人だった。血気盛んだった松原は、バッターボックスに入ると400勝投手の金田正一やキャッチャーの森祇晶らと口論も辞さないほどの闘志をむき出しにした。
「巨人だけには絶対に負けたくはなかった。注目度も高かったし、プロ野球選手として巨人に勝たなければ認められないと思っていた。巨人戦の前は、ちゃんと散髪に行ってヒーローインタビューの準備をしておくんですよ。それぐらい燃えていましたね」
 松原は、ホエールズ時代に放ったホームラン330本中、じつに巨人戦では73本も放ち意地を見せつけている。ここにホエールズの四番あり、と。
 しかし人生とは数奇なもので、ホエールズに魂を捧げた松原が晩年、宿敵の巨人へと移籍することなど全盛期には夢にも思っていなかった。
(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

松原 誠

1944年1月13日生まれ。埼玉県出身。飯能高から62年に入団。当初は捕手だったが一塁手に転向して65年からレギュラーに定着し、主砲として長きに渡り活躍。80年には大洋球団史上初の通算2000本安打を達成した。81年に巨人へ移籍し、その年限りで現役引退。以後は大洋・横浜、巨人、広島のコーチを歴任。通算成績は20年間で2190試合、2095安打、331本塁打、1180打点、打率.276。