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No.017

2019.08.07 wed

ホエールズ史上最高の投手
必殺“カミソリシュート”誕生秘話

COLUMN by 平松 政次

 球団史上ただひとりの“200勝投手”――。
 歴史に燦然とその名を輝かせる大エースだった平松政次は、自他ともに認める無類の負けず嫌いだった。
「わたしが絶好調の時代、当時は完投をすると一日休養が与えられるのですが、ベンチにいてチームが負けていると、自分がマウンドに行ってピンチを抑えたいという衝動に駆られたものです。常にそういった気持ちで戦っていましたね」
 1965年、平松は岡山東商業のエースとして春の甲子園大会で優勝投手となり、さらに1967年には日本石油で都市対抗野球大会に優勝し、橋戸賞(最優秀選手賞)を獲得。ホエールズの将来を担う選手として鳴り物入りの入団だった。
「8月8日の都市対抗での優勝を待って入団を決めたのがドラフトの交渉期限ぎりぎりの8月10日でした。初登板はその6日後の広島戦。先日まで社会人野球で投げていたから大丈夫だと思っていたのですが、ボコボコに打たれてプロの厳しさを知りました」
 自慢の高めのストレートがまったく通用しなかった。結局、途中加入の初年度は3勝4敗、2年目は5勝12敗と散々な結果だった。当時の平松としては、どんなに打ち込まれても登板機会をもらえることを不思議に思っていたというが、後年、チームをこよなく愛し、スター選手の出現を願っていた中部謙吉オーナーの口添えがあったのだろうと確信したという。
「普通なら二軍行きの状況なのに、中部オーナーから“絶対にエースにしろ”と当時の別当薫監督に指令が出ていたと思うんです。そうじゃなければ、あれだけの登板数は考えられませんよ」

 平松はドラフトの際、憧れだった巨人から指名の話があったものの、それは果たされず、ホエールズに2位指名されている。都市対抗優勝という命題はあったものの、当初、ホエールズへの入団を迷っていた。中部オーナーは「どうしても欲しい」と、チームの看板選手であり高校の先輩である土井淳と秋山登を送り込み懐柔に乗り出すなど、甲子園、社会人のスターだった平松の才能に惚れ込んでいたという。
 そんな平松が覚醒したのが3年目のキャンプのときだ。練習中に先輩打者から「そんな球しか投げられないのか!」と揶揄され、悔し紛れに投げ方だけ知っていたシュートを投げると、鋭くホップし信じられないような軌道でミットに吸い込まれ、差し込まれたバッターは尻餅をついた。ここに名だたる打者を震撼させた“カミソリシュート”は誕生した。
 平松はシュートを武器に、この年に14勝を挙げ頭角を現すと、翌1970年に25勝を挙げ最多勝と沢村賞のタイトルを獲得。以後10年以上にわたり二桁勝利を記録し、ホエールズの絶対的エースに君臨する。
 しかし本人いわく、シュートだけの力ではここまでの活躍はできなかったという。
「重要なのはアウトコースのストレート。あるとき先輩の森中千香良さんが『お前、そんな真っすぐを投げていたら絶対に抑えられないぞ。俺のピッチングを見ておけ!』と、正確無比の素晴らしいストレートを投げ込むんですよ。これぞプロだなって。感銘を受けたわたしは、徹底して自分のストレートを研究し磨きをかけていきました。おかげで勝負できるボールになったし、加えて相乗効果でシュートがより生きるようになった。25勝を挙げた年、おそらくストレート一本でも15勝はできたと思いますね。それぐらいコントロールできる自信がありました」
 ピッチングの基本はいつの時代もストレート。平松はシュートとストレートの両輪を武器に勝利を重ね、いつしか“巨人キラー”と呼ばれるようになっていった。
(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

平松 政次

1947年9月19日生まれ。岡山県出身。岡山東商高時代の65年にセンバツで優勝。同年秋に中日からドラフト4位指名も拒否して日本石油に進む。66年第2次ドラフトで大洋に2位指名され、翌年の都市対抗優勝後に入団。3年目の69年に14勝をマークすると70年25勝、71年17勝で2年連続最多勝を獲得。79年には防御率2.39で最優秀防御率に輝く。83年に200勝を達成。84年限りで引退。通算635試合登板、201勝196敗16セーブ、防御率3.31。沢村賞1回。ベストナイン2回。