私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.011

2019.06.11 tue

盟友と挑んだプロの世界
待ち構えていた「思わぬ」壁

COLUMN by 土井 淳

「弱いチームだったんで、“ふたり”で挑戦をして強くしたいという思いは確かにありましたね」
 グラウンドの指揮官”と呼ばれ、1960年の球団初の日本一の立役者となったキャッチャー・土井淳――。今年86歳になった立志伝中の名プレイヤーは、入団したときの大洋ホエールズを思い出し、そう語った。
 土井は、地元の岡山東高校時代、その後を決定づける運命の出会いを果たす。それが数年後のホエールズの大エースとなる秋山登だ。
“ふたり”はここに揃い、以後、18年間バッテリーを組みつづける。ともに甲子園へ出場し、明治大学で活躍し、ホエールズを日本一へ導いた、これ以上ない盟友だ。
 明治大学時代、ふたりは幾度もチームを優勝に導き、個人ではベストナインに選出される六大学野球のスター選手だった。もちろん、プロの球団が放っておくわけがない。
「僕らの条件は、ただひとつでした。それは僕と秋山を一緒に引き取ってくれること。ふたりでどこまでやれるのか勝負したかったんです」
 球界の盟主である巨人がふたりに強い興味を示したが、そこに割って入ったのがホエールズだった。草創期のホエールズはベテラン選手を寄せ集めたチームだったが、結局それでは優勝できず、オーナーの中部謙吉は、大卒の若手を主体にすることで、チームを一から作り直すことを決意する。土井と秋山の若きバッテリーは、まさにうってつけの存在であり、チームとしては喉から手が出るほど欲しかった。ちなみに謙吉オーナーは、以後もこの方針をつづけ、近藤和彦(明大)や桑田武(中大)、近藤昭仁(早大)ら、のちに主力となる大卒選手を毎年のように獲得していく。
「明大の島岡吉郎監督や明大OBの方々に相談しましたが、最終的には僕たちの意思に任せるということでした。条件面も含めホエールズへの入団が一番きれいに納まるのではないかとふたりで話して決めました。あとオーナーのチームを強くしたいという熱意を感じたのも大きかったですね」

明大5選手の入団(写真左が土井選手、中央が秋山選手)

 謙吉オーナーは、土井と秋山ばかりでなく、他にも明大から3人の選手を獲得。さらに明大助監督を務めていた下関商出身の迫畑正巳を球団の監督に招くという土井と秋山に配慮したとおぼしきチーム作りを敢行した。これには土井も意気に感じずにはいられなかった。
 1956年、晴れて若きバッテリーは入団するわけだが、現実問題、前年に31勝99敗という戦績でどん底にいたホエールズである。志高くチームに合流した若き土井であったが、入団してすぐ苦しくも惨めな現状を突きつけられることになる。
「まず感じた印象は、プロの世界は“甘い”ということです」
 鳴り物入りでホエールズに入団した土井は愕然とした。こんな世界だったのかと。 「それまで過ごしてきたアマチュアは、負けたら終わりの危機感があった世界。しかしプロは、今日負けても明日頑張ろうといった感じで悔しさがないんです。初めは抵抗感がありましたが、結局、自分たちもそういう雰囲気に染まっていってしまいました。
 またオーナーは一生懸命がんばれよと言ってはくれるのですが、非常に優しい方で家族主義というかアットホームな球団だったんです。厳しく叱咤激励するわけでもなく、いわば“ぬるま湯”のような感じだったんです」
 土井が1956年に入団して以来、1959年までチームは最下位。その前も含めれば6年連続最下位という体たらくだった。
 そんなホエールズに激変が起こる。
 1960年、西鉄ライオンズで日本一3連覇を達成した“智将”三原脩がホエールズの監督に就任することが発表された。
(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

土井 淳

1933年6月10日生まれ。岡山県出身。右投右打。岡山東高、明治大を経て、1956年に大洋に入団し、1年目から85試合に出場。球団初優勝を遂げた60年は26歳ながらコーチ兼任捕手を務めた。68年に引退、その後は大洋、阪神でコーチを歴任。80年〜81年途中までは大洋の監督として指揮をとった。現役時代の通算成績は1138試合、508安打、23本塁打、176打点、打率.215