私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.008

2019.04.12 fri

無口で頑固者--。娘が語る
黎明期を支えた名手のホエールズ愛

COLUMN by 引地 千雅子

 球団の草創期を選手として支えた引地信之は、下関が生んだヒーローだ。
 下関商業時代は甲子園へ4度出場し、卒業後は大洋漁業の関連会社である林兼造船に務めながらノンプロチーム全下関でプレーをしている。1952年に大洋ホエールズに入団すると、1年目からショートのレギュラーとして活躍し、その後8年間、現役としてチームのために力を尽くした。引退後は球団でスカウトを務めていたが、1973年からは再びユニフォームに袖を通し、コーチや二軍監督を務めた。二軍監督に就任した1975年には高木由一や田代富雄らを擁してイースタン・リーグ優勝を飾るなど若手選手の育成にも力を入れた。
 そんな引地は今から20年前の1999年、心筋梗塞により帰らぬ人となっている。
「昭和ひと桁生まれの頑固者。無口で怖い父親でしたね」
 そう語るのは引地の娘で、現在下関市で飲食店を営む娘の千雅子さんだ。

※写真左 : 引地信之選手

 在りし日の父の姿――千雅子さんは意外なことを教えてくれた。
「父は野球をまったく家庭に持ち込まない人だったんです。ですから私は、高校生になるまで父がどんな仕事をしているか知りませんでした。シーズン中は家をほとんど空けているわけですけど、物心ついたときからそういう生活だったので、それが当たり前と思っていたんです」
 ゆえに野球人としての父親の記憶は皆無に等しい。たまにお客さんから下関の英雄だった父親の話を聞いても、実像とかぶらず複雑な心境になることもあったという。
「きっと不器用だったんでしょうね。努力家でその姿を人に見られるのが嫌だったと思うんです。数少ない家族の思い出は、海水浴や大洋ホエールズの保養所の温泉に旅行をしたこと。オフのときは家族で過ごしたいという気持ちはあったみたいですね。無口で厳格だったけど、今思えばそういう父の姿も好きでした」

 引地は1979年限りで二軍監督を退くと、下関に戻り球団のスカウトとして西日本を中心に全国を飛びまわった。また晩年になると千雅子さんも大人になったこともあり、ようやく野球の話をぽつりぽつりとするようになったという。
「父はよく、大洋と関わり最後まで野球で暮らせたのは幸せだった、と言っていましたね。また厳しいプロの世界、数年で現役を終えてしまう若い選手を見るのは忍びないとも。だから自分がスカウトとして関わった山下大輔さんや長崎啓二さんが長く活躍する姿を見て、嬉しいと話していました」
 千雅子さんは少し間を置き、こう続ける。
「父とこういった話ができるようになってから3、4年後でした。天国に行くのが早かったですよね……」

 永眠後、千雅子さんが荷物の整理をしていると、父親の野球に関する大量の遺品を発見した。現役時代の写真をはじめルーキー時代からの選手証、NPBから支給されたネクタイピンやカフス、全国を飛びまわって書き記したスコアやスカウト手帳、そして二軍監督時代の背番号70のユニフォーム……。
 野球を一切家庭に持ち込まなかったというが『野球人・引地信之』の証しは、確実にそこにはあった。
「3月10日の下関でのオープン戦は雨天中止になりましたけど、じつは父は雨男だったんですよ。ああ、父が雨を連れて帰ってきたんだなって」
 そう千雅子さんは冗談めかしながら言うと、不器用だった父親を思い優しく微笑んだ。

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

引地 千雅子

1952年に大洋ホエールズに入団した引地信之の長女。現在は下関市内で飲食店を営んでいる。引地信之は1930年11月3日生まれの下関市出身。1952年から59年までの通算成績は942試合に出場し、779安打、35本塁打、249打点、打率.229。引退後は球団に残り主に地元下関を拠点にスカウトを担当したが、73年から79年までは二軍監督やコーチを務めた。