私とベイスターズ supported by マルハニチロ

No.004

2019.03.26 tue

ホエールズとの縁

COLUMN by 山本 譲二

 大洋ホエールズが創設された翌年の1950年、2月1日に歌手・山本譲二は山口県下関市で誕生した。ホエールズ初のプロ野球公式戦が下関球場で開催されたのが同年の3月10日だったことを鑑みれば、この世に生を受けて間もない赤子の山本は、家族の愛情を一杯に受けながら、球団にとって記念すべきこの日を迎えていたことになる。
「僕が生まれたとき球団が1年目だったことを思うと、縁を感じずにはいられないんです」
遠くを見つめながら山本は、少年時代を思い出す。
 父親は、地元が生んだ球団をこよなく愛する無類のホエールズファン。その影響もあり山本は当然のようにホエールズを好きになった。物心がついたときには、すでにチームは下関を離れ川崎へと移転していたが、父親からチームのキャップを買い与えられると、山本はそれを宝物のように大事にかぶっていたという。
「ただ、当時は長嶋茂雄さんの影響で子どもたちの間ですごく巨人が人気でね。小学校の友だちが巨人の帽子をかぶっているのを見るとちょっと羨ましかった。子どもってそういうところあるじゃないですか。それで親父に『巨人の帽子が欲しい……』と言ったら、案の定『バカタレ!』と怒られてしまった。『お前はホエールズの応援だけしとけばいいんじゃ!』ってね(笑)」
 山本にとってホエールズの思い出は、すなわち父親と寄りそった日々の記憶でもある。

 一番記憶に残っているのは1960年シーズン、三原脩監督のもと球団初の日本一になったときのことだ。
「日本シリーズは、家で親父と一緒にラジオで聴いていてね。対戦相手の大毎オリオンズをまったく寄せつけず4連勝での日本一。すごく喜ぶ親父の姿を見て嬉しかったことを覚えています。地元の生んだ球団だし、娯楽の少ない時代、ホエールズは親父にとってのこれ以上ない“誇り”だったんだと思います。今になるとその気持ちがよくわかるんですよね」
 ある日のこと、凱旋試合で下関に訪れていたホエールズの選手が地元のバッティングセンターに来るという噂を聞きつけた。山本は一目散に現地へ向かった。
「当時の主力だった桑田武さんと近藤和彦さんが本当にバッティング練習をやっていたんです。僕はバックネットに陣取ってかぶりつきですよ。そのプロ野球選手の打球たるや衝撃だったし、軽くバットを振っているのに軟式のボールが割れてしまうのではないかと思ったぐらい。あの光景は、いまだに強烈な思い出として残っていますね」
 初めて間近で見たホエールズの選手。子ども心にプロの選手のすごさを思い知った山本は、その後中学校へ進むと父親の希望もあり野球部に入部。更に早鞆高校時代には甲子園へ出場した。ホエールズが導いた野球との縁は、山本の人生に稀有な経験をもたらせ、豊かなものとした。
(後編へ続く)

(取材・文=石塚隆)

PROFILE

山本 譲二

1950年2月1日生まれ。下関市出身。早鞆学園高校時代に西中国地方代表(当時)として第49回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)に出場。1974年に「夜霧のあなた」で歌手デビューを果たし、1980年にリリースした「みちのくひとり旅」がミリオンヒット。3月10日に実施予定だった下関でのオープン戦(雨天中止)で、スペシャルゲスト出演が予定されていた。